しらぼ、

松本まさはるがSFを書くとこうなる。

走馬灯を作る

 

走馬灯が見えた、なんて表現がある。死にそうな思いをした時に見るやつだ。

 


元々は回り灯籠とも呼ばれ、影絵が回転しながら写るように仕掛けが細工された江戸中期頃の灯籠のことだ。

 


走馬灯が起こる原因は、人は死の危険に直面すると、助かりたい一心でなんとか助かる方法を脳から引き出そうとするために記憶が映像的に一気によみがえる、アドレナリンが分泌されて脳に変化をもたらして記憶をよみがえらせるなどと考えられているが本当かどうかはよくわからない。

 


僕が働いている鳶職なんかでは、たまに堕ちそうになって走馬灯が見えた、なんて人もいるし、ふざけて高いところで突き落とそうとして相手に走馬灯を見せさせるという頭のおかしい遊びもやったりする。

 


この間、職場の先輩と話していたときの事だ。京浜東北線の駅のホームに電車が到着するアナウンスが流れた時、先輩に走馬灯見させてあげようと思って僕が先輩を突き落とそうとした。流石に本気で突き落とすこともなく、走馬灯も見させられなかったのだが、走馬灯の話になった。

 


『今走馬灯を見たら、何が写るだろう?』

 


という内容だった。言われてみるとなんだろう。難しい。子供の頃の思い出のシーンから、恋愛、仕事、旅、色々出てくるのだろうか。でもやはり辛かった思い出よりも、楽しかった思い出が蘇るのだろうか。

 


僕は旅が好きだから、アジアをまわって旅をしているシーンとか、青春18きっぷで日本全国まわったシーンが出てきてくれたらいいな、と思った。

 


「先輩は走馬灯、何が写りますか?」

 


僕が尋ねると、先輩はしばらく黙った後に答えた。

 


「多分ね、何も写らないんじゃないかな。」

 


それはただ分からない、というよりも、どこか寂しげな思いがあったに違いなかった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歳を重ねるごとに生活は効率化され、パターン化する。同じことの繰り返し。

 


朝起きて、仕事に行って、帰って寝る。

 


生きているのに、死んでいる。

 


死んでることにすら気づいていない。

 


閉塞的な日本社会には実はこんな人がゴマンといるのではないだろうか。

 


変化を恐れて惰性と諦めで生きて、周囲の人間に対しては嫉妬の気持ちも含めて新しい挑戦への批判をする。

 


会社に文句はあるけど直接は言わない。社会に流されているのに流れに乗っている気になってやり過ごす。これでよかったんだ、と。

 

 

 

そういえば人の死に際について、かなり昔立ち飲み屋での会話で聞いたことがある。

 

 

 

人が死ぬ時にたくさんの人に囲まれながら天寿を真っ当して死ぬ事なんてほぼない。病室のシミひとつない真っ白な天井を眺めながら死ぬ。だからその時に人生を振り返って、どれだけその天井を思い出で鮮やかに彩れるか、それが全てだ。お金とか物は天国には持っていけないから。まぁ天国に行けるか知らないけど。ハハハ。

 


生きててホッピー飲んでる酔っ払いに死ぬ人の何がわかるんだよと内心思っていたけれど、案外その人の言う通りなのかもしれない。最後死ぬときに走馬灯を見て、満足して死ぬ事が出来れば、それで充分なのかもしれない。

 


人の死生観はそれぞれあるから他人にとやかく言うことはないと思うが、人生の折り返しを迎えた30歳になってからは、残りの人生をどう過ごすか、何を感じるのか、世の中にどう貢献していくのか、もっとゆっくりと考えを深めていきたい。そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先輩は言った。

 


「松本くん、俺ね、走馬灯作ってくるよ。」

 


先輩の陰っていた瞳の奥に一縷の光が灯ったような、そんな気がした。まるで瞳の中の回り灯籠がゆっくりと動きだして、影絵の隙間から力強く火が揺らいでいるようだった。

 

 

 

先輩は僕にじゃあ、と手を軽く挙げ、電車に乗り込んだ。電車の扉が閉まる。先輩の表情は少しだけ、何かを見つけたかのように、満足気で、嬉しそうだった。京浜東北線はゆっくりとホームから遠ざかっていった。

 

 

 

先輩が帰るのとは反対方向に走る電車を見送りながら、僕は腹を抱えて笑った。

 


きっとこの光景は走馬灯に写るだろう。