ハプニングバー界の大谷翔平
当初の開花宣言より早まった東京では、至る所にソメイヨシノが街に彩りを添えていた。歩く人々も足を止めては、その美しさに魅了されている。
日曜日の夕方。少し風が冷たいせいか、いつもより早足で僕はいつものビルに入る。
アルファベット一文字だけ書かれた無造作な看板のついた扉の前に立ち、インターホンを押す。いつもの店員に導かれて中に入る。
換気のあまり良く無いフロアーにカップルが数組とカウンターに男性客が数人。店員に炭酸水を頼んで椅子に腰掛けた。
横にいる客はいつもの常連のパンダだ。本名は知らないし、知る必要もない。禿げた頭に残ったわずかな髪の毛がまるでパンダの耳のようになっているから、勝手に命名した。上野動物園のシャンシャンと一緒に中国に帰ったとおもっていたのだが、違うらしい。
「WBC、観てるかい?」
パンダは唐突に言った。壁を向いたままつぶやくので、誰に対して聞いているのか分からないが、恐らく僕なのだろう。
「ハイライトだけ、観ました。大谷翔平選手凄いですね。」僕はそう答えた。
ワールドベースボールクラシック、通称WBCが2021年に当初開催予定だったが、コロナの影響で延期、ついに2023年の3月に開催となったのだ。
日本代表には大谷翔平やダルビッシュ有などメジャーで活躍する選手も登場し、大活躍している。
「大谷翔平選手、凄いですよね、ピッチャーでありながら、ものすごいバッティングもこなしますもんね。二刀流ですね。」
少しだけ野球をかじったことのある僕にとってはそれがどれだけの事なのか想像はつく。並大抵の人間には出来ないのだ。普通の人が努力を積み重ねて出来ることの範疇を超えている、まさにスーパースターなのだ。
「じつはね、ここのハプニングバーにも居たんだよ。スーパースターが。」パンダは含みのある顔でそう言った。
「しかもね、すごい偶然なんだけど、その人も『大谷さん』って呼ばれてたんだ。本名かは分からないけどね。」
それからパンダは新しいタバコに火をつけると、『大谷さん』について語り出した。
また来てるよあの人。
ほんとだ、どうせ、なにもしないのにね。
コソコソと小声が聞こえてきて、それがおそらく自分の事を指していることも察しがつく。大谷は恥ずかしくなった。
平日の昼下がりのハプニングバーは人妻が多い。朝夕や土日は家族と過ごすので、必然とこの時間帯になる。
そんなハプニングバーに実家暮らしの無職、大谷(28)は居た。無論、無職だからこそ平日の昼間からハプニングバーに居れるのだが、あいにく大谷は童貞だった。かなりのあがり症で、セックスどころか他のカップルの行為を観ていることすら恥ずかしく、トイレに駆け込んで一人で致す、という有様だった。
そんな大谷のことを他の客は嘲笑い、大谷童貞などと呼ぶ者もいた。
そんな大谷を不憫に思ったある一人の女性がいた。ハプニングバー内ではかなり明るく社交的で、周りからはマラ姐さんと呼ばれ慕われている人だった。男勝りの気の強さと優しさに惚れてしまう人も多かったが、マラ姐さんと身体の関係になる人はほんの一部だけだった。軽い女ではない、ということなのだろう。
「大谷くん、だったかな?」
マラ姐さんが声を掛ける。
「え、あ、はいっ。」
急な出来事に戸惑う大谷。
「大谷くんってもしかして、まだ童貞、なのかな?」
「…。」
童貞です。と言うのがあまりにも恥ずかしかった大谷。だが、その無言がなによりの答えだった。マラ姐さんは微笑んで言った。
「よかったら、初めての相手、私じゃだめかな?教えてあげるから。」
「えっ…い、いいんですか!?」
戸惑う大谷の側に自然と寄り添うマラ姐さん。そのままマラ姐さんに手を引かれるようにして、そのまま大谷は緊張したままプレイルームに誘われて行った…。
僕は思わず話を遮ってパンダに言った。
「えっ、全然スーパースターなんかじゃ無いじゃないですか。」
「いやいや、焦るんじゃないよ。話はここからなんだ。」
パンダが吸い終わったタバコを消して、すぐさま2本目を咥えながら続きを話しだした。
マラ姐さんの喘ぎ声が響き渡った。
プレイルームの外、カウンターや他の部屋にまでマラ姐さんの喘ぎ声が響き渡った。
あのマラ姐さんが、性交渉をしている。
しかも、大谷童貞と。
そして、喘ぎ声を出している。
ハプニングバーに居た全員が驚きを隠せず、しばらくの間マラ姐さんの喘ぎ声に耳を傾けていた。
数分後。ようやく事が済んだのだろう。少し汗ばんだ額のマラ姐さんがプレイルームから出てきた。未だに息が荒い。常連の一人がマラ姐さんに駆け寄った。
「マラ姐さん、どうしたんですか?大谷童貞となにがあったんですか!?」
マラ姐さんは答えた。
「…なになんてもんじゃあないよ。あの子はね、間違いない。スーパースターだよ。」
そこから大谷の評価は一変した。あのマラ姐さんを満足させた男なのだと。陰口を叩く者は一人もいなくなり、大谷がハプニングバーに入ると必ず誰かが席を譲った。ハプニングバーに居る女の誰もが大谷との性交渉を望んだ。彼のバットはとんでもないのだと。メジャーリーガーなのだと。賞賛の声が上がった。
…ここまで言い終えたとき、パンダの吸っているタバコはフィルターの根本ギリギリになっていた。僕はパンダの話の大谷さんに魅了されていた。
「大谷さん、すごいじゃないですか。スーパースターですねまさに。僕も大谷さんみたいになりたいです。」
ふっ。とパンダがほくそ笑む。
「いやいや、こんなもんじゃないぞ。話はここからなんだ。」
パンダが3本目のタバコに火をつけ、語り出した。
大谷の絶頂期はしばらく続いた。
彼の噂を聞いた他のハプニングバーの客や、都内以外の横浜方面、更には関西からも大谷を一目見たくて客が押し寄せた。サインを欲しがる者までいた。
来る日も来る日も大谷はプレイルームに入り浸り、力の限りバットを振り続けた。
そんなある日。大谷が事を致してプレイルームから出てシャワールームに行くと、そこには目を真っ赤にして泣いている人の姿があった。近づいてみると、マラ姐さんだった。
「マラ姐さん、、どうしたんですか?」
「あっ、大谷くん、ううん、なんでもないよ。気にしないで。」
「そんな、なんでもない訳ないじゃないですか。言ってくださいよ。」
そこから、バツの悪そうに、泣いていたからか時折しゃくりをあげながらマラ姐さんは話した。
私とのプレイの後から、大谷くんが人気者になってしまった事。
私とプレイする事も全然無くなってしまった事。
大谷くんが遠い存在になってしまった事。
もちろんここは普通の世界じゃない。
ハプニングバーだから。
束縛もないし、誰とプレイしても自由。
それも分かってる。
でも、私…ずっと寂しかったんだ。
マラ姐さんの心の内を、大谷は黙って、頷きながら聞き続けた。
大谷は自身を恥じた。
童貞だった自分を、卒業させてくれたのは紛れもなくマラ姐さんなのに。
人気者になったからといって、プレイに明け暮れて、大切な人への感謝の気持ちを忘れてしまっていたのだと。
人気に驕り昂った人間のどこがスーパースターなのだ。もっとマラ姐さんを大切にしてあげないと。
「マラ姐さん、僕、間違ってたよ。」
大谷の頬を一筋の涙が落ちていく。
「大谷くん、私とプレイしようよ。」
2人は手を繋いでそのままプレイルームに入って行った。そして、いつまでもいつまでも幸せだったそうな。
一通りの顛末を聞いた僕は言った。
「なんか日本昔話みたいな終わり方しましたね。というか、普通にハッピーエンドじゃないですか。」
ホッとする僕に向かってパンダは言った。
「いや、実はな、マラ姐さんは男なんだ。で、マラ姐さんはタチなんだ。つまり大谷はこの時からネコになったったことさ。」
「えっ、てことは、、、」
「そう。大谷はスーパースターであり、二刀流なのさ。」
パンダの吐いた煙草の紫煙がゆっくりと昇っていった。