「お前の審美眼を見せてみろ。」
悪天候の続く夏のお盆の最終日、僕はそんな挑発的な言葉を受けてしまい、動揺した。審美眼?なんじゃそら。である。
ただ、そう言ってきたおじさんは顎に生えた白毛と金毛の入り混じった髭を指で触りながら、眼は真っ直ぐに僕を見据えていた。お前がどれ程の者か確かめてやろう。とでも言いたげな眼。
僕は戸惑った挙句の果てに、おじさんの問いに答えることにした。緊張からか、背中にはTシャツに滲む程の汗をかいていた。
「いや…ちょっと僕には分かりません。」
おじさんは僕の返答によほど落胆したのか、先程までの鋭い眼光はフッと消えてしまい、ため息をついた。
「世の中は沢山のもので溢れている。人間、情報、音楽、アート、文化。それらはなんの関係性もなさそうで孤立しているが二極端に振り分けることができる。それが、美しいのか、美しくないものか、だ。お前はまだ幼い。世の中の美しいものに触れて知るがいい。まぁ、いい。また改めて来い。」
そう言い放つと、僕がもう居なくなったかの様に無関心になり、部屋の奥に消えていった。
いまにも降り出しそうな雲行きの中、一人歩く僕。接戦の末の敗北とあれば多少悔しいのだろうが、今回は全くの無知。悔しさというよりも虚しさが胸を過ぎった。
審美眼とは何か。先ずはそれを調べた。デジタル大辞泉にはこうある。
しんび‐がん【審美眼】
美を的確に見極める能力。
要は美しいものとそうで無いものを的確に見極めるということだ。「審美眼の養い方」などで調べてみると、審美眼とは元々の才能ではなく、より多くの美しい物と触れ合い、かつ美しい物の基準を知ることで得られることができるそうだ。つまり教養である。
あのおじさんが僕に求めていたのは美しいものを選ぶ力だったということだ。あの髭を触る態度を思い出すだけで悔しくなってきた。必ずや審美眼を養い、あのおじさんを驚かせてやりたい。そう思った僕は早速、行動に移した。
タクシーに乗り込み15分弱。僕が乗ったタクシーは上野公園にある東京都美術館に着いた。
単純な考えかもしれないが美しいものは美術館にある!と考えた僕には他に術はなかった。ここで多くの美しいものを観て感じることが出来れば審美眼を養える。そう思った。
東京都美術館では『ボストン美術館の至宝展~東西の名品、珠玉のコレクション』が開かれていた。
当然前売り券を持っている訳でもなく、一般料金1600円を支払い中へ。
そこには古代エジプトの発掘品や日本・中国の作品、モネやゴッホの作品まで多く飾られていた。現地では写真撮影は出来なかったのでホームページ上の画像を挙げる。
エジプトのツタンカーメン王頭部。
釈迦の入滅を絵にした涅槃図。
ゴッホによって描かれた郵便配達人。
それらの作品は、何世紀も超えた今もなお観るものの心を揺さぶる名作の数々だった。美しいものを観る。という教養は単に勉強とは違って楽しいものかもしれない。
しばらく館内を見て回った後、僕は再び外に出てタクシーに。向かう先はあのおじさんのところだ。
建物に入ると陳腐な鈴の音が鳴る。
中からつまらなそうな顔をした先程のおじさんが出てきた。なんだ、またお前か。とでも言いたげな顔だったが一変、ほほう、お前もジェダイの一人になったのか。的な少し感心した顔つきになった。
「また選ばせてください。」
「…いいだろう。」
おじさんが懐から取り出したいくつかの写真を広げた。さっきと全く同じ写真達なのに、どうしてだろう。僕には全く違って見えた。僕には迷いなどなかった。
「この子にしてください!」
「…ふむ、この短期間でこの成長、大したものだ。」
そう言ったおじさんは顔は無表情なのだがどこか、喜んでいる様にもとれた。まるで息子の成長を喜ぶ父親のようだった。
「愉しんでこい!」そう告げたおじさんは背中を向けたまま親指を立てた。そして部屋の奥に消えた。